アンドロギュヌスとしての在り方
- mIf
- 2023年7月19日
- 読了時間: 3分
更新日:2024年6月4日

ピアノを弾くこと。
女としてピアノを弾くことは、時にドレスを着て笑顔を振りまくこと、優雅であることと同義だ。
そう思って演奏を依頼してくる人が、一定数いる。
ピアノで求められることと自分がピアノでやりたいことのギャップに、ずっと違和感と居心地の悪さを感じてきた。
ある時、自分はかっこよさのためにピアノを弾きたいんだと気づいた。
「ノクターン」や「愛の夢」など誰もが憧れるような甘くロマンティックな曲よりも、
カプースチンやヒナステラ、ラヴェル、現代曲がどうしようもなく好きだ。
得体の知れないエネルギーを放出するような曲、知性に裏打ちされた技巧、そういうクールなもの、「かっこよさ」に無限の憧れを感じる。
もっと言えば、ドレス以上にスーツがたまらなく好きだ。
言葉も同じ。
削ぎ落とされたものが好き。
例えば道元。
道元は仏教者であり、哲学者でもある。
彼の言葉は研ぎ澄まされて透徹している。
かっこいい。
憧れる。
そうなりたい、そう在れたらどんなにいいだろうと思う。
これらは知性や強度といった、いわば男性的な要素と言える。
でも一方で、女性のたおやかさや色香にも等しく魅力を感じる。
特に自分の場合は作詞作曲をする時に女性性が出てきやすい。
女性的なものが、良さも悪さも含めて自分の中にあるから、音楽と共に言葉として出てくるんだと思う。
きれいな女も好きだ。
こういう柔らかさは時に弱さ、曖昧さとして感じられる一方、微妙な色彩や感情や直感こそが人間らしさであり、AIに代替できない魅力にもなり得るだろう。
長い間、この2つの反対要素を右往左往する自分に辟易してきたし、一貫性のなさをどうすればいいのか途方に暮れてきた。
一見、ブレブレで疲れる。
SNSやアーティストとしてのブランディングなど、「発信する上で一貫性が大切」とはよく言われることだ。
私は作ることが好きだし、作ったからには誰かしらに届けたい。
なのに、どの立場を取ればいいかわからなかった。
だってどっちも好きだから。
昨日と今日では、いや数分前と今では、自分の在り方が異なっているから。
一貫性なんて不可能じゃないか。
でも今わかった。
自分の、時に男性的・合理的であり、
時に女性的・感覚的な態度は、
まさにアンドロギュヌスである、と。
その時々、気分によっても相手によっても異なる性別。
魅力的であることさえ忘れなければ、私はその在り方が一番自然で愉しい。
そういう両性具有的な生き方や作品が、現代のLGBTQとは少し距離を置きつつ、
しかし最も古い人類の神話と共にある「アンドロギュヌス」としての在り方として、
一つのロールモデルになれたらお伽話のように素敵だと思った。
古代ギリシャのアンドロギュヌス。
19世紀デカダン作家たちが夢中になったアンドロギュヌス。
錬金術や神秘主義の根本にあったアンドロギュヌス。
これらは驚くべきことに、私がずっと好きだった作曲家であるドビュッシーやラヴェル、サティ、スクリャービン、そしてショパンの恋人である男装の女流作家ジョルジュ・サンド、
このような人たちが生きている時に直に影響を受けた思想でもあると分かった。
ワクワクした。
自分の好きなものたちが、ひと繋がりになり得るかもしれない。
現代に少しずつ、ルネサンスのような、世紀末フランスのような、でもどちらでもない新しい不思議な芸術場を立ち上がらせるのだ。
「今」に居心地の悪さを感じる人たちがそっと逃げ込む場所、心地よくどこか懐かしく、不思議と落ち着ける小さな部屋。
音楽と言葉と思考で、それを作っていく。
この感覚、共有できる人がいるだろうか。
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